昭和48年09月28日 朝の御理解



 御理解 第24節
 「人に誘われて、しょうことなしの信心は、付け焼き刃の信心じゃ。付け焼き刃の信心は取れやすい。どうぞその身から打ち込んでの真の信心をせよ。世に勢信心と言う事を言うが一人で持ち上がらぬ石でも大勢掛け声で一度に力を揃えれば持ち上がる。ばらばらでは持ち上がらぬぞ。家内中勢を揃えた信心をせよ。」

 その身から打ち込んだ信心と、世に誠信心と言うが、一人で持ち上がらぬ石でも、という風な関わりを、関わりあいを持っておるものだろうか。前半と後半の、意味が解らない様な感じが致しますね。始の所では、その身から打ち込んだ信心を、しかもその身から打ち込んだ誠の信心をせよとこう仰っておられる。その事と勢を揃えて信心せよと言う事。私は思いますのに、例えば現在合楽で、合楽教会大発展、言った様な祈りを皆さんがなさっておられると思うんです。
 言うならば、合楽中の信奉者がその事を願う、その事を祈りの中心に例えばしておるという人がありますと言う事は、勢を揃えております事ですから、なら、大きな働きになっ来るかというと、その教会の言うなら信者一同が祈り願っておるというても、その身から打ち込んだ真の信心をしておる者が、願わなければそれは大した事はないと思うですね。まあ言うならその身から打ち込んで真の信心をする所から、真の力が付くでしょう。その力が集まるから百人の者がその事を祈れば、百の力になるです。
 ところが全然そういう信心の力を持たない者が、言うならば千人集まっておってもそれは烏合の衆の様な事ですから、力になりません。私は其処ん所をそう言う風にあのう、そう言う関係を関わりあいを持ってこの御理解を頂いたら有難いと思うですね。人から誘われての、参れ参れと言われてのと言う程度の信心では、まだ付け焼き刃だとこういうのです、だからその身から打ち込む。しかもその身から打ち込むというてもです、只、一生懸命拝みよります、参りよりますでなくて、真の信心に打ち込む。
 その真の信心に打ち込む事によって信心の有難さ、信心の力を得る事が出来る。そういう人が私は、勢を揃えて信心をする。力を持った者が一、二の三で一つの物を持ち上げる、担えると言う事になって始めて大きな石でも掛け声をかけて一度に力を揃えれば、力を揃えれば持ち上がると言う事になって来る。力のない者が、只、こうやって握っとるだけと言う事では、ひょっとするとそれにぶら下がっとる様な人があるかも知れません。そういうのは返って邪魔になる事になる。
 果して自分達の信心は、そう言う意味に於いて、邪魔になってでもおる様な事はなかろうか。果して掛け声を揃えて、一緒に例えば合楽の教会大発展、いうなら、又は五つの願いと言った様な願いをです、させて頂いておるその願い、その力と言う物がです本当のお役に立っておるだろうかと、言う風に私は反省して、見ねばいけないと思う。第一にその身から打ち込んだ信心であろうか。しかも、その打ち込んでおるが、真の信心に打ち込んどるのであろうか。
 そこん所が前半の所、先ずは真の信心に打ち込んどらねばならない。そこでです、最後の所に家内中勢を揃えた信心をせよとあります。是は例えば、私は教会の信者一同が力をあわせてとこう言う事申しましたが、家内中勢を揃えて信心せよと言う事は、家内中の者がまず、なら信心にならなければならない。いうなら家族挙げての信心にならなけれはならない。そこでならはじめから一家中が挙げて信心をすると言う様な家は少ない。始は誰かが、お父さんなり、お母さんなり誰かが信心を頂く事によって。
 れが夫婦で信心する様になり家族挙げて信心する様になる。ならそう言う風に信心する様になったから勢が揃うとる、例えばこの二十四節からと言う事である勢が揃うと言う事ではない。その家族中の者がその身から打ち込んでの真の信心であるかと言う事になる。家族中の者が真の信心に打ち込んでおらなければならぬ。だから是は大変まあ、いうなら難しいと思うですね。
 私共が外地から引き上げて帰って参りまして、まあ様々難儀苦労が御座いましたが、まあいうなら家族勢を揃えて信心をしておったと思うんです。ある正月の元旦のお夢に母が頂いとりますのに、当時椛目ですが、もう大水が入っとる。その大水が入っとるところへ大きな、大割りとい大きな筑後川辺りで砂利なんかを運ぶ大きな船なんです。その大きな船に青梅が一杯山盛りに積んである。
 それを家族中の者で又は押したり引いたり、又は上に乗っとる子供達が、若先生がまだ小さい時ですから、日の丸の扇子を持ってから頑張れ頑張れと船に乗って言いよる。前を一生懸命引いとるのが私、後から母妹又は父が一生懸命後押しをしとる。そしてそれを家の中にまあ、家の中にこう押し込んだというお知らせ頂いた。まあ今から思うてみると、青い梅というのは永い間信心さして頂いた、大した事は出来んけど信心辛抱させて頂いて、まあようやく此の梅の実が実ったとこう言う事を頂いてよいでしょう。
 それをそんなら愈々自分の家にそれをなら入れて、それをならまあ、青梅ですから梅を漬けると申しますか、漬けてそれが何時までもそれが悪くならない様な信心のいうならば、徳になると言う所までが、家の中にまで押し込んだと言うとこじゃないだろうかと、こう言う事。勢を揃えて信心せよと、此処に例えばあります様に、どうぞその実から打ち込んだ真の信心をせよと言う事の解釈になると大変難しいし、又難しく感じる。
 けれども例えばまあいうなら、今の車なら車船より車の方が解り易いでしょうね。車力なら車力に一杯の荷物を持っておるけど、なら中心になる者がそれを引いておる。子供達が前に縄を付けて引っ張っておる。親がそれを後から押しておると言う様な私は、丁度車力を一家中で引いたり押したりしておる様な、いうなら信心と言うところを頂いて行きたいと思うですね。
 それがなら、必ずしもその真の信心を目指しておるとは解りませんけれども、家族が一つの事をです、家族中例えば信心しておっても、その祈りというか、願いと言う物がバラバラであっては駄目だ。中心になる人が車力を引っ張っておるなら、それに縄を付けて前の方から引っ張る、又後の方から一生懸命押す。そこに私は五人おれは五人の力がそこに揃うてその車力を動かしたり引っ張ったりする事が出来る。
 ですからその一つの願いと言う所がです、言うならば、高義名文とでも申しましょうか、筋の通った神様の気感に適う。その事を祈らしてもらう願わしてもらう、というて信心の程度はまちまちでありますから、又はなら子供と親との場合に、祈りの程度信心の程度も違いましょう、例えば子供が学校に行っとるなら、勉強の事願うでしょう。親はその日その日の生活の事を願うなら、やっぱ親は生活の事を願うでしょう。
 ですからそれは私は、その一人一人の信心によって、信心で良いのですけれどもです、どういう祈り、願いを持っておりましてもです、その中の一つの、中心になる祈りと言う物は、親も子も、いうならば、孫も同じ祈りに立たなければいけないと、こう言う事。その祈りが言うならば、神様の前に出してです、神様にいわゆる高義名文の立つ、祈りというか、願いと云う物が、一貫しとらなければいけないと思う。それを今日はなら、合楽では五つの願が、合楽教会大発展。
 是だけはなら家族中の祈りの中心、芯と言う物がそこにおかれなければいけない。そう言う例えば祈りの中からです、銘々の願っておる願いも又成就して行くという風に思うのです。丁度私共が一杯の梅の実を積んだ船を自分の家に押し込んだり、引いたり押したり又はそれを一生懸命、頑張れ頑張れと応援したりしておる様に、その一つ事は丁度なら車力を引たり押したりしておる様に、力をそこにあわなければいけません。それで今日はこげな事ばお願いするけん。
 あんたどんもこんな事をお願いせんのと言う風に揃えられるはずはありません。銘々によって違うけれども是だけは何時でもどんな場合でも、御神前に額ずいたが最後、祈りの中身にとしてです、例えば合楽教会大発展と言った様な物が願わなければならないものとして願う。合楽教会大発展の中に私の家の発展もあるんだと。いや合楽教会大発展と言う事はいうなら教団の発展、そんな事じゃないもっともっと大きな。世界真の平和に繋がる程しの願いであると云う事をです皆んあが自分の信心の内容に。
 解ってない者にも解らして、そこん所の祈りを一つにして行かなければいけない。そいう意味で私は合楽教会大発展と言う事は、大変な大きな意味も持っている事である。勿論、神様がお喜び頂けれる願いである。それを例えば、煎じ詰めますとです、銘々自分自身がおかげ頂く事である。自分の家一家がおかげ頂く事に繋がる程しの願いなのです。只御教えを頂いて参りますと。その身から打ち込んだ信心をすると言う事は、どうぞその身から打ち込んでの真の信心をせよとこう言われておる。
 だからその真の信心とは中々難しい様々な、例えばなら自分のある場合は、我情我欲の事までも祈り願う事が多いのですお互い。けれども此処だけは真の信心だというのがです、私は合楽の教会大発展と言う事じゃないかと思うです。是だけは真の信心是だけは神様が喜こんで受けて下さる、願いだと言う事になって来る時にです。その身から打ち込んで真の信心をいうならば、しておる事になるのでありその事をです。
 例えば勢を揃えて祈らしてもらう。それが私は勢を揃えた掛け声を一度に力を揃えて、揃えれば持ち上がらぬ石でも、持ち上がる様な大きな力大きな働き伴って、おかげになって来ると言う風に思うです。私共の二十数年前の信心が真の信心であったかどうか、それは自分にも解りません。只もう我情我欲ばっかりでの願いであったかも解りません。それでも私共その時頂いたお知らせというのが。
 只今申しまた様なお知らせでしたから、その事を家族中の者に話をした。さあ今こそ引いたり、押したり又は子供までもそれを応援するくらい、応援する気持ちで頑張りらにゃーというて、信心を頑張らして頂いたものです。それが今日の合楽の、言うならば、基になっておると言う事でもあれば、成程普通ではとても持ち上げられそうにないものが、持ち上げられたおかげであると思うですね。
   どうぞ。